​沿革

寛永10(1633)年5月、渡島国福山(現松前町)法源寺4世盤室芳龍大和尚が、亀田郡亀田村(現函館市亀田町付近)に堂宇を建立し、亀田山高龍寺としたのが始まりです。

​元禄16(1702)年6月、豪雨のため亀田川が氾濫し堂宇が倒壊、その後も数度にわたる災害に遭い、これを機に函館区の発展を展望して5世根山独善大和尚の時代に箱館に移転し、開基家の姓から山号を国下山と改めました。

​箱館が安政元(1854)年に日米和親条約で開港され、国際貿易港となっていく過程において、高龍寺はロシア領事一行の仮止宿所や箱館病院の分院としての役割を担って函館の発展に寄与していくことになります。

 

函館を訪れたペリー提督は「港に沿って延びている本通りの近くに、著しく成長したヤナギやモミの木陰の美しき構内に高龍寺すなわち高き龍王の寺HIGH DRAGON TEMPLEがある」と紹介しています。

しかし、明治2(1868)年の戊辰戦争の戦火に高龍寺も巻き込まれて高龍寺の堂宇は再び延焼し、収容されていた傷病兵も惨殺されるという悲劇が起こりました。

その後明治12(1879)年6月、18世住職大光海雲大和尚の代に檀信徒の願いが実り現在地に移転。いくたびかの火事があったものの19世雲林大法大和尚の代に伽藍再興の願いが叶い、明治33(1900)年に本堂が落成したのを始め、現在の伽藍威容が整うことになりました。

​明治34(1901)年7月、大本山永平寺64世森田悟由禅師大導師により入仏慶讃法要を営修、これを機に山号を国下山より国華山と改め、格地寺院、常恒会地に昇等され、宗門第一の位を有するようになりました。

明治時代は、中央教団が積極的に高僧を派遣して北海道開教を推し進めた時代でありました。管長や貫首が道内に布教教化に来るときには必ず北海道の表玄関に立地する高龍寺で旅装を解かれ、この結果高龍寺は北海道における開教拠点となっていきます。

高龍寺自身も積極的に布教教化に努め、現在は道内各地に41の末寺を持ち、道内寺院のおよそ3分の1にあたる180ヶ寺あまりが高龍寺の流れを汲んでいます。