​生死

「人は、死んだらどうなるのか」。誰しもが一度は考える、逃れられないテーマです。

仏教において、この事はどのように考えられているのでしょうか。輪廻転生?地獄と極楽?お釈迦様の答えは、意外なものでした。

お釈迦様が、そばを離れず付き従ってくれた阿難尊者に対して言った説法が残っています。

「阿難よ、私は昔、弟子の1人から、『世尊、我々人は死んだらどうなってしまうのでしょうか?』と聞かれたことがあるのだよ。」

 「その時世尊は、何とお答えになったのですか?」

 「私は何も答えなかった。ただ、黙っていただけだった。」

阿難は、この答えを聞いて、拍子抜けしてしまいました。しかしお釈迦様は続けます。

 「質問をした弟子は、ちょうど今のそなたのように、何か物足りない様子だった。

でもね、私はこう考えているのだよ。『死んだ後のことは誰にも分からない。そんなことを考えるより、人は死ぬ、では限られた命をどうやって使うのか、そのことを考えたほうが大切ではないか』と。」

命を授かった以上、老い、病、死は避けることのできない宿命です。そして同時に、その時が来るまで私たちは経験することができません。そんなことを考えるよりも、今の瞬間を「生きる」ということに全力で取り組むことこそが大事ですよ。お釈迦様はこのように話しています。

道元禅師はどのようにおっしゃっているのでしょうか。

「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき ありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ、滅もひとときのく らゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。生というときには、 生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、 ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことな かれ。この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち 仏の御いのちをうしなはんとするなり。」(『正法眼蔵』生死)

生から死にうつると心得るのは、誤りである。生は一時の位であって、すでに前があり、後がある。こういうわけであるから、仏法の中では、生はとりもなおさず不生と言う。滅も一時の位であって、また前があり、後がある。これによって、滅はとりもなおさず不滅と言う。生と言う時には、生よりほかにものがなく、滅と言う時には、滅のほかにものがない。こういうわけで、生が来ればただこれ生、滅が来れば滅に向って仕えなさい。(滅を)厭がってはならない、(生を)願ってはならない。この生も死も、仏のいのち(真理)なのだ。それをもし自分の思うままにしようとするのならば、その仏のいのちを捨ててしまうことになるのだから。

なかなか難しい表現ですが、道元禅師のおっしゃっていることは、「生と死は連続しているものではない」ということです。道元禅師はこの事について、他の箇所でも、薪と灰のたとえや、春と夏のたとえを使って繰り返し説明しています。

薪は燃えて灰となり、灰が薪に戻ることはない。薪と灰は全く別のもので、薪が灰に徐々に変化していくわけでもない。この前後のありかたには断絶がある。薪と灰との関係は、人の生死も同じで、生と死は連続したものではない。

「春がやがて夏に変わるというのではなく、『春の夏』『夏の春』ということもない。春は春でそこには花が咲き鳥がうたい、春としての性相を全うしている。これと同じで生の時は生の位に成りきって、生を尽くし生になりきらねばならない。」

このお二方の言葉を見ると、自ずと我々の目指す道も定まってきます。

 

今、私たちは生きています。この一瞬を生きています。

「生きる」ということに全力で取り組み、生が終わる瞬間まで、それを継続できたのなら、それが「よい人生」と言えるのではないでしょうか。

​生老病死を始め、此の世は思い通りにならないことで溢れています。それを自覚し、その思い通りにならない中でいかに全力で「生きる」か。そこに、仏教の教えは集約されています。

宗教は違いますが、孔子はこのようにいいました。

「われいまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」

また、ルターはこう言いました。

「死は生涯の終焉ではなく、生の完成である」

私たちも、今の生が終わるその瞬間まで、生に懸命に生きたいものです。

​仏教は「このいのちをどう生きるか」の教え。

​そのお手伝いができたなら、仏教者としてこれほど嬉しいことはありません。

​住職 永井正人