宝物
高龍寺は幾度となく火災に巻き込まれ、その伽藍の多くを消失しています。しかしながら、なかには奇跡的に火災を逃れ、現代まで寺宝として受けつがれている美術品もあります。その中の代表的なものをご紹介します。
『釈迦涅槃図』他、蠣崎波響作品
蠣崎波響(かきざき はきょう 1764-1826)は、江戸時代後期の画家,武士。松前藩主松前資広(すけひろ)の5男で,蠣崎家の養子となり、家老として陸奥(むつ)梁川(やながわ)(福島県)に転封された藩主の松前復帰につとめるかたわら、絵師として南蘋派、円山派を修め、代表作『夷酋列像』(現在、フランスのブザンソン美術館、函館博物館にそれぞれ一部が収蔵)は光格天皇の天覧にあずかるほどでした。
そんな蠣崎波響の作品のうち最大のものが『釈迦涅槃図』です。高龍寺第11世住職である華重禅海(けじゅうぜんかい)大和尚の求めに応じて描かれたもので、波響作品のうち最高傑作の一つと言われています。双幅一対、各幅縦300cm横140cmの大作で、
「時文化辛未秋九月為 松前函館奥高龍寺十一世 禅海上人 蠣崎源廣年斎沐 拝手写於波響楼」
(時に文化辛未秋9月 松前函館奥高龍寺十一世 禅海上人のために 蠣崎源廣年 斎沐し拝手して波響楼において写す)とあります。
この『釈迦涅槃図』は昭和43年、北海道有形文化財に指定され、現在は4月1日から15日までの間のみ一般公開されています。
高龍寺にはこのほか、3点4幅の波響作品が伝わっております。
『亀鶴図』(双幅)
『四時競色図』
『羅漢図』
白隠慧鶴筆『鍾馗図』
白隠慧鶴(はくいん えかく 1685~1768)は、臨済宗中興の祖と讃えられる禅僧です。駿河(現在の静岡県)に生まれ15歳で出家、臨済宗の禅僧となりました。各地を巡歴して修行を積み、33歳で郷里の松陰寺に帰り、住職となりました。本格的に書画を手がけたのは還暦を過ぎてからです。
現在のこる白隠の書画のほとんどは、60歳代以降のもので、まったくの独学である白隠ならではの、うわべの技巧を超越した融通無碍な境地を示し、その魅力は、国内よりも海外でいち早く評価されてきました。
そんな白隠禅師が達磨と共に好んだ画題が鍾馗(しょうき)の図です。鍾馗は厄除けの神として親しまれ、端午の節句には子どもの厄をはらう守護神として尊重されました。もともとは、中国に実在した人物で、玄宗皇帝のときに科挙を目指したが落第を重ね、それを恥じて宮中で自殺した人物です。ところが、どういうわけか、重い病気にかかった玄宗の夢の中に現れ、玄宗を悩ませていた悪鬼を追い払ったところ、玄宗の病気が治り、それに感謝した玄宗が、画工に鍾馗の姿を描かせて顕彰し、それ以来厄除けの神として庶民に慕われることになったのです。
白隠禅師ははこの伝説に感じて、鍾馗をテーマにした絵を数多く描きました。
賛には「或ひは玉殿廊架のした、つるぎをひそめて忍び忍びに」という一節が書かれています。
これは謡曲『鍾馗』の一節で、発起菩提心を起した鍾馗が、国土安穏の誓いを発したところです。
このことからも、白隠の描く鍾馗図は、発菩提心の象徴、煩悩という『魔』を打ち払うものとして描かれていることがわかります。
高龍寺の鍾馗図はいつ伝わったものかはっきりしておりませんが、今では寺宝として大切に保管されています。